2010年11月27日土曜日

ymeneは蛇の夢を見る

高木正勝ピアノソロコンサートツアー「ymene」名古屋公演に行ってきた。


10人のミュージシャンで構成された 前作Tai Rei Tei Rioから一転してのピアノソロ。一言で言うと、やっぱり彼は期待を遥かに上回るモノを見せてくれた!


今回のツアータイトルにもなった作品[ymene]は彼の造語で”夢の根”を指す。意識からふわっと立ち上がり、一瞬の具現を通して闇に帰る夢の根っこに流れている「大きな流れ」を表現する彼の試みは、今後もナンバリングタイトルとして継続されるらしい。


ところで夢はシンボルのメタファーを媒介にして構造をスライドさせる事で神話との類似性も指摘される。2008年の[NIHITI]、[Homichavalo]制作を機に、彼の作品の中に「神話」というキーワードができた気がする。あるいは、太古の昔から人間の意識の根底にある思考の流れを表現するための媒介として神話を選んでいるのだろう。(彼はインタビューで”始源の音楽”を表したいと常々言っている。始源の音楽を見つけるには始源の思考をつかまなくてはいけない。そして神話には現代に伝わる始源の記憶のかけらが含まれている。)


今回[ymene]はプロローグであるymene:zeroとymene:1が公開された。ymene:zeroで印象的なのはまず北極星とシロクマのイメージ、そして胎児が”脱皮”を繰り替えし老いていくイメージ。その脇には常に蛇とカニバリズムのイメージがつきまとっているように感じた。


蛇は昔から世界中で畏怖と信仰の対象だった。それは脱皮に見られる生命力の体現と四肢がない事による無限の可能性の2点に依る。(お正月の鏡餅や、しめ縄も蛇信仰が由来らしい。)


北極星から降るシロクマのイメージは、アルテミスを連想させ、アルテミスは月(女性)の神。そして月経を告げるのは蛇だった。さらにアルテミスは豊穣、多産の神であると同時に疫病、死の神でもあった。人身御供を要求する(=人を喰う)神でもある。


また、北極星は中国では北辰信仰の対象になり、「辰」とは龍神、すなわち蛇だった。


脱皮はまさに蛇のイメージ。生命力の更新。また、胎児の脱皮は胞衣も連想させる。胞衣はこの世とあの世を結ぶマジカルなモノとして考えられていた。そして脱皮を繰り返した胎児は老いて翁の顔となる。翁と胎児は胞衣を通して表裏一体の象徴だ。


ymene:1にも蛇のイメージは散在する。それを最も表すのはラストの虹だった。虹は2008年制作された[NIHITI]のテーマでもあったが、今回も重要なシンボルになっていると思った。虹と蛇。それをつなげる「大きな流れ」としての人間の生命力と思考。


これらの映像に付随する音楽はまさに「原初の音楽」だった。初めて聞くのに昔どこかで聞いたとこがある気がする、やさしい子守唄のような音楽。


具体的なイメージを独特の表現法を以て映像を制作していたころの作品では、その表現方法がかれの言う「大きな流れのようなもの」を表していたが、今回のコンサートで出てきた新作を見ると、現在はその流れ自体を視覚化するべく作品を制作しているようだった。一本の白い線のイメージが動き回って様々なイメージ(具体的なものも、そうでないものの含め)を作りながらふわりと消えていくような映像もあり、まさにつかめそうでつかめない夢のイメージと蛇のイメージを混同しながら見ていた。


映画「或る音楽」で彼は「コンサートは自分が最高の状態で作曲できる環境を作るための場になればいい」という趣旨の事を言っていた。そして今回のツアーはまさにその点を意識して行われていた気がした。目の前のスクリーンに映し出される映像を見つめながら確かめるように音を奏でる様は、自身が作った映像と「対話」をしながら演奏しているようだった。おそらく今ツアーではコンサート毎に曲のニュアンスは大きく変わっているだろう。元々彼の演奏はそういう部分があったが、今回はソロでの演奏なのでより自由に舞台上で「作曲」ができるようになっているのだろう。


いろいろ感想を書いたが、何よりも僕が思う彼の魅力は、コンサートを見終えたあとの深い満足感と幸福感だろう。彼のコンサートを見終わると僕は必ず「生きててよかった」と感じる。まわりでは多くの人が涙をすする音がする。つまり、彼の作品には人を動かす「希望」がたくさん詰まっている。その希望がどこに由来するかと言えば、やはり彼が作品づくりを始めたきっかけとなった「世界を祝福したい」という想いだと思う。いつまでも変わらずに世界を祝福させるために制作を続ける彼は、やはりマジカルな存在である。夢の根を掘り起こす今プロジェクトは、人間に希望を与える。